生きた証

 かなり前の、教会堂を借りた講演会のとき、フロアーから中年の神学生という方が次のようにご自分の感想を発言された。「自分の母教会の牧師は『私たちはひたすら神さまを求めているのだから、社会問題には関心を持つな』というし、神学校の教師は『社会問題も信仰の重要な証しの場だ』というし、どう考えたものか、困惑する」。
 それを聞き、とっさに手を挙げた。「以前、ここの教会で紛争が起こったとき、私も全く同様に困惑した。信仰者の(隣人との問題としての)社会問題を過剰に問う、問題提起者に抵抗を感じながらも、しかし与えられたキリスト教の生きた信仰ではどう考えることが正しいのか、懸命に考え求めた。そして、私なりに何とか次のような結論に達した。『贖罪の十字架のキリストに救われてこそ、罪なる弱い私たちがイエスの愛のわざに従うことができる』。だから、キリストの贖罪の信仰を無視してイエスの愛に従おうとする行為は根なし草の行為であり、またイエスの愛の社会的わざを軽んじるキリストの贖罪の信仰は、信仰者の怠慢だと思う。
 どちらも生きた信仰とは云えない。世に生きて苦悩する罪なる思いからキリストに救われてのみ、初めてイエスの愛のわざに招かれている私たちと思う」と告げた。

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