障害者のキリスト理解

 いつだったか、ある教派の視覚障害の教職の方から、こんな話を聞いた。

 「信徒の方から、たいへんな先生のご様子を見ていると、イザヤ書五三章に預言されているメシアの姿をみるように思う」というのである。信徒の善意の思いから出た言葉であるとしても「それは全く違う」とハッキリと明言する彼に、同じ障害者として心から同感した。さまざまに障害を負って生きる人々の様子を見て、同情を寄せるあまり、そこに聖書に描かれた「苦難のしもべ」の姿を見ようとする気持になるのか。しかし、私たちに教えられた信仰によれば、私たちがどんなに深刻苛烈な人生を送ろうとも、それ自体が神の前に「義とされる」ことではなく、まして、メシアの似姿とされることでは絶対にない。私たちは、あくまでもメシアの前に救いを求め、十字架の死と復活の恵みに、各々の人生の希望を託する者なのであある。もし、障害者が自分自身の困苦に満ちた人生をもって「苦難のしもべ」に擬する思いを持ったならば、そのことにより、彼はたちまちキリストの救いに対して、遠い存在になってしまう。私たち、障害者のキリスト教信仰の理解の問題性は、自己憐憫的な内向き傾向になる危険と、厳しい自己体験を自ら評価してしまう誘惑である。

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