「馬役」の感謝

 学校制度を一日も利用しないで来た私にとって、知的教育の手段は読書しかない。敗戦直後の頃、私は疎開していた九州の田舎で、その旺盛な知識慾を大百科事典の通読で満たしていたが、どこか心理的に空虚な気がしていた。周囲に適切な読書指導をしてくれる人はいなかったが、偶然、母親同士が友人である二十代の青年が私のもとに訪れてくれるようになった。彼は陸軍士官学校に行っていたが、敗戦で一転、医者を志して勉強を始め、その息抜きのために、話しに来てくれていた。そしてその度に「これ、読んでみたら」と、私のために多くの本を持参して貸してくれた。当時の私にとっては、ずいぶん難しいものばかりで、一読だけではよく理解できなかったものの、知的満足に興奮しながら毎日懸命にページを追った。それは「岩波文庫」の物が多く、一〇〇頁を示す★一つを読むのを日課にしていたが、ある時、河合榮治郎編著「学生叢書」シリーズを貸してくれた。河合教授の思想的立場は、何も知らなかったけれど、このシリーズで私が与えられた学問的恩恵は実に深く、私の思考力の源になったと思う。

 その後、若い彼が私のところに来る動機が妹への好意で「将を得んと欲せば、馬を射よ」的発想と知ったが、「馬役」の私の彼への感謝の念は変わらない。

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