最近、受洗された女性のお一人が「今日のお説教のように、人間の都合、神さまの都合と言われると、人間の都合ばかりで生きている私など礼拝に出席する資格もない気がする」と呟くのを聞いて、思わず「いや、神さまはそんな私たちをいつでも招いてくださっています」と声をかけてしまった。信仰である以上、聖書に示されている教えは、基本的に最も大切にしなければならないことは言うまでもないが、それをあまりに強調し過ぎて、神さまに赦されている喜びも知らずに、教会を去ってゆく人々を数多く見てきたことを至極残念に思っていたからである。
また、折々の説教で「アレ、私のことを話されている!」と受けとめて、落ち着かない気分になることがあるが、(私自身、教会に来始めた頃、何も話していないのに、どうしてこんなに私の心の中が分るのかと、大変不思議に思った)当然、牧師が別に一人ひとりの問題を取り上げているわけではなく、与えられたその日の聖書のみ言葉をどんどん深く追究してゆくと、すべての人の魂の問題にふれてくるのであり、その魂に向かって神さまの救いの福音が語られてくるのである。私たちが信仰に生きるということは、まず、この神さまのみ言葉を聞き、従うことだと思う。