愚者のウワゴト

 気がついたら、時々来ていた一つの「市民運動」の会報が来ていない。高い志と熱い思いをこめた粗末な紙の創立趣意文に共鳴した記憶があるが、深刻な不況で結局続けられなかったのか。こうした運動の破綻は、内部的確執もあるが、だいたい、経済的行き詰りの場合が多い。折角の希望もお金のために消えるのか。本当にお金が欲しい。

 議会政治が正当に機能しない以上、「市民運動」の役割には意義がある。教育・福祉・環境とテーマを決めて活動し、目的を果たせば解散して、そこには何の利権も残らない。比較的よりよいこの方法と思うが、お金がないことにはこうした運動も続かないのである。

 お金の力は、まことに市民生活の隅々にまで及ぶ。ただ、私個人は健康を保つ程に衣食を与えられ、住いは過ぎゆく地上の宿と諦観すれば(明らかに見れば)、借りて暮らすマンションも満足であり、子育てを終えて、年老いた親を見送った身には、必要以上の富はむしろ有害なのだが。

 でもこんなに執着する思いでいたら、きっといまわの床のウワゴトで「お金が欲しい」ということだろう。すると、見舞いに来た人びとがこう思うに違いない。「長い教会生活をしてきた彼だが、この程度だったのか。しかし、私たちの神さまは、このような愚かな者をも救って下さるのだ。感謝である」と。

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