以前、「自衛官合祀拒否訴訟」最高裁判決の日、私は多くの支援者の方々と一緒に、胸にゼッケンをつけてもらい、三宅坂の通りを歩いていた。偶然、車でそこを通りかかった会社員の甥がその私を見つけ、翌日、早速やってきて「本当におどろいた。障害者の叔父さんがいくらゼッケンをつけて歩いたって、世の中、変わるもんじゃない。危ないからやめたがいい」と懇々と諭した。しかし、私が「心配してくれるのはうれしいが、世の中、変わらなくても大事なことだと思うから行くんだ」と、淡々と答えるものだから、甥も諦めたのか、それっきり、私をいさめなくなった。
確かに彼の言葉通り、障害者の私がゼッケンをつけて歩いても、世の中は変わらないし、まして最高裁の判決に対して何らの影響も与えなかったことだろう。でも、私はあの日、あの場所で、信仰の一つの証しとして、あのような行動にともに参加したことを喜びたい。ともすれば、内向きな自己憐憫的なものになりがちな障害者としての信仰から、神に遣わされている者の一人として時代の問題に目を向けて、社会の課題をともに担う信仰に呼び出され導かれたのだから。どんな過酷な状況を生きる障害者でも、十字架の死と復活の恵みに与かる者として、神のわざに招かれている。