質素を旨とする家風に反発しながらもそこで育った母と、実業界で活躍してきた父との間に、価値観の大きな違いがあったのは、あるいは当然と思う。多くの場合は違いを認め合い、理解し合うことなのだが、気丈な母は父のことをずっと心の中で許せず、孫にまで「あなたたちのお祖父さんを一生どうしても好きになれなかったとよ」というのをよく聞いた潔癖感の強い母に対して、戦前の日本では経済力のある男性に対する倫理感は一般にずいぶん甘かったと思う。
青島(チンタオ)での生活に馴れて数年経ってから、月末になると、必ず母の前に初老の男性が現われた。聞けば「生活に困っている気の毒な日本人」とのこと。それを聞いて母は、彼がくる度にさまざまな物を用意して持って行ってもらった。やがてその人が父が別の所に住まわせている女性の父親であり、決まった手当を受け取りに来ていることを母は知った。母のおどろきと不信の念は大きく深かった。裏切られた怒りと悲しみに耐えて、それでも子どもたちのために忍従する母の思いに叔父(新婚旅
行に同伴した)は繰り返し言っていた。「失敗した結婚というけれど、三人もよい子を授けられたのだから、いいとしなければ…」。過去を振り返れば、人間の過ち、罪は限りなく深い。