キリストの視線

 こんどの「秋葉原事件」について、さまざまな情報を見たり、聞いたりしているうち、私はこれまでたどってきた自分自身の心の歩みを振り返り、何か言いようもない同情と悲しみ、そして深い憤りを覚えました。それが何に対してなのか、よく分かりませんが、ただ知る限りの彼の魂の遍歴の軌跡に、同じような私自身の記憶が重なります。さまざまな事情で、決して順調とはいえない人生を負った若い頃の私も、彼のように、劣等感や孤立感にさいなまれていました。自分に比べれば、少なくとも常識的にまともな生活を送っている人々に対する嫉妬感、いささかな敵意を覚えたことも、正直なところ、否定できません。しかし、こんどの事件の容疑者のように、私は同じ人間の命を奪ったことはなかった(もっとも私の場合、他者の生命を奪うことでなく、ただ自分自身の生命の断絶ということであったのですが)。それは、最後のギリギリの思いのとき、すべての人の「生命をいとおしむ」キリストの視線に出会ったからです。

 すべての人の生命をいとおしむ視線の前では、嫉妬も敵意も自然に消えていきます。人間の最も暗く厳しい嫉妬と敵意のために、犠牲となられたキリスト・イエスにより、私たちはすでに救いの御手のうちに入れられています。

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