いまから二〇年くらい前、ある革新系の婦人候補者の国政選挙演説会に行ったとき、彼女がハンセン病のことを、演説の中で旧来のライ病という名で繰り返し言った。彼女の発言が終わると、すぐ同行のY氏が抗議の手をあげた。「この一つの病名を変えるために、我々の仲間がどれほどの思いと力を尽くしたか。それを思うと、安易に病名を言わないで欲しい」。日頃、温厚なY氏が激昂するように語るのを聞いて、私たちはおどろくとともに、粛然とした気持ちになった。この抗議の声の背景には、いわれない偏見と差別の壁に囲まれて生きてきた怒りと悲しみの歴史が刻まれている。
このハンセン病の患者に限らず、私たち障害者もまた、同様の偏見と差別の壁に囲まれて生きてきたのは、いうまでもない。その偏見の表われとして障害者の「害」(何か社会に悪いものやマイナスを与える感じ)の字にこだわり、それを変えて「がい」にする、いっそ、平仮名で「しょうがいしゃ」にするとか、さまざまな意見が出されてきたのだが、いまだに統一的なものはない。いくら表現する文字を変えても、それを使う人間の意識が変わらなければダメだという考えと、その意識を変えるためにも、文字を変えるべきだとの意見もある。どっちも重要と思うのだが、容易によい答えが出ない。