最近、ある牧師がある集会で「幸いにして、ここには障害者がいない」と発言したことを聞いた。あまりに率直な言葉に、障害者のひとりである私は、私憤を超えて憐憫を覚えた。彼は単純に障害を負って生きることを交通事故に遭った「災難」のように思って「その災難に遭わなくて幸いだ」と言いたかったのだろう。人間的には理解できる言葉であるとしても、キリストの福音を説く立場の者としては、批判は免かれ得ないと思う。人間、生きている以上、いつどこでどんな「災難」に遭わないとも限らないのだ。その意味では、まことに一寸先は闇である。しかし、その闇の先に福音の光を見出すことこそ信仰であり、そのキリストの救いを語り伝えることが牧者に与えられた光栄ある任務であるはずである。「災難に遭わないことをもって幸いとする」程度の福音に甘んじてはならない。それは真の人間の救いを示しているキリストの福音を矮小化させてしまうことであり、人間的尺度で福音をねじ曲げて解釈してしまう罪は大きい。このように思いめぐらして、一つの人間的「災難」である「障害者」になったことを通して、信仰により与えられた祝福を覚えると告げる私は、あえてこう発言しなければならないだろう。「幸いにして、障害者になったのだから、最後まで障害者の立場に立つ」と。