父の顎ヒゲ

 私が幼いときに死んだ父のことは、ほとんど知らない。ただ、子どものころは頭がよくて、いわゆる「飛び級」をしたとか、海軍兵学校に憧れ、受験したが、視力で落第、三日間も布団の中で悔し泣きに泣いたとか、生前、父方の叔母から聞いた記憶がある。

 その後、満州で重電関係の事業を起こし、中国の青島(チンタオ)に移って、或る程度成功したとき、郷里から若い母を迎えて結婚した。一時は居留民団の市会議員のようなこと(立候補演説草稿が残っていた)で活躍もしたらしいが、なぜか事業をやめ、顔が広いので生命保険業を始めたところ、或る年の全国成績優秀社員十指に入り、丸の内の本社に招かれた。東京での生活は、二・二六事件などを書いた日記から推測すると、当初は平穏に過ぎたようだが、徐々に糖尿病が進み、やがて谷中の家で最期を迎えた。

 晩年、どんな思いで生きていたのか、知るよしもないが、ただ一通残っている巻紙の親族への「お悔やみ」の文章には、不本意に終わる人生の無常感が溢れていた。 その父が病床で、あぐらをかき、小さな障害児の私を顎の下に抱きながら「お父さんと一緒に死のうか」と言ったとき、私は「いや!」と強く拒んだ。ごわごわした顎ヒゲの感じとともに、いま、その折の父の心情をしきりに追憶している。

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