「犬食い」の悔い

 「犬食い」という表現がある。手足を使わずに飲食することで、それは、ちょうど動物が餌を食べる姿から連想され、人間にとっては最も卑しい食事の仕方と思われてきた。

 これまで「身体障害者」の私は、そのような姿で食事をしてきたので、我が家以外ではできるだけ食事する機会を避けてきた。でも、人と人との交わりの中で「食事を共にする」のも大事なことだから、どうしても出なければならない会食には、妻と共に出かけ、妻の介添えで食事をして、その時を過ごした。しかし、私にとっては食事を楽しむ思いはなく、義務的に時間の経過を待った。

 思えば、かつて自分の「犬食い」の姿を恥じて、良き友情を得る大事な機会を失ったことがある。若い日、教会で年代の近い者たちが、それぞれ幼い子どもを連れて気楽な一泊旅行をしようということになり、私も当然のようにへだてなく誘われた。そのことを家で話すとまだ元気だった母親が複雑な表情を浮かべて婉曲に反対した。私自身も結局、彼らの好意に溢れた友情を心から感謝しながらも、適当な都合をつくり参加を辞退した。この「辞退」を、私は時折思い出す度に、私自身の生涯の大きな「悔い」であると思っている。

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