第一次世界大戦で、日本が権益を得た中国山東省の港町「青島」で重電関係の事業をしていた父のもとに生まれた私は、生後一年目の夏、ハシカに罹り、手足の自由を失った。懸命に看病した母は、その結果を聞いたとき、おどろき悲しみ「そんなことならばこの子のためには死んだ方がよかったですね」と嘆いた。しかし、医者は「いや、こんな病気をすると、体質が弱くなっているので、多くの場合、四、五才で亡くなる」と予言したそうである。それを母から聞くたびに、私は「彼はよほどの籔医者だね、その一五倍以上も私は生きているんだから」と、蔭口をたたいて苦笑した。
医者の常識的予想を裏切り、ここまで長く障害者として生きてきた私の人生が、人間的に果たしてどれほどの意味があったかと自問するときがある。住んでいる十一階から見える広い空が気持ちよく晴れていると、すべて意味あるものに思え、どんより曇っているときは、およそすべて意味ないものに思えて仕方がない。天候によっても左右される主観的な気分からは、確かな思いは何も生まれてこなかったが、いまは、与えられたキリストへの信仰によって「私もせっかく、障害者として生きてきたからには!」と思い返している。