障害それ自体と障害度

 空襲で焼け出されて、東京から疎開していた九州での敗戦数年後のある夏の頃、知人の若者が大分の山中で自殺したという知らせを聞いた。本当の理由は当然分からないが建築家になることを志望し、国立大学の建築学科に進学していた彼が、その夏、突然熱病にかかり、病気は治ったものの、指先に麻痺が残ったため、それを悲観しての自殺ではないかと噂された。当時、障害者としての過酷な人生を次第に自覚し始めていた若い私は、皮肉な微笑を浮かべながら「そういうことなら、自分などは何回、自殺すればいいのかな」と言って、母を深く当惑させた。

 彼の自殺について考えめぐらしているうちに後で気づいたのは、障害それ自体と障害度(自分の障害をどの程度に意識するか)とは、全く別の問題であるということである彼の場合、客観的障害自体は一〇か二〇%程度と思えるが、彼にとっての障害度は一〇〇%だったから、将来に対する不安や絶望から、一気に人生の決着をつけたのではないか。現在であれば、彼の不自由を補う手段は多くあるが、当時では限界があった。しかし、ここで極めて大切なことは障害問題に限らず、人生途上で遭遇するあらゆる問題を自身のなかで一〇〇%、絶対化しないことである。

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