ある意味で苦楽を共にした甥が今年一月、ガンで逝った。見舞いに行き、帰り際に「また、来るね」というと、壮絶な痛みに耐えながら「ありがとう、気をつけて、無理をしないで!」と言ったのが、この世で聞いた彼の最後の言葉になった。
小学校でかかってきたハシカを移してしまい、そのために幼い私を身体障害者にしてしまったと、自責の念をひそかに抱き続けていた姉、その思いから不幸な弟を一生面倒みようとの願いから、意にそわぬ結婚した姉の長男として生まれた彼は、深く隔たった両親の価値観、人生観の狭間で生涯、きびしい軋轢と闘った。
その甥の死を迎え、コヘレトの言葉「なんという空しさ、なんという空しさ」が、私の心に強く響いた。表現しえない人間的な怒りや悲しみをこめた空しさの思い。しかし、ここでいう「空しさ」は、それだけではなく、不条理な矛盾に満ちた人生の現実から神の支配を疎み、決定論(‖運命論)に傾くことへの空しさであり、神を見失った者の罪である。コヘレトの結末の言葉は、新約の時代を生きる者に「畏れるべき神は、その愛のゆえにひとり子イエス・キリストの十字架の死と復活による恵みを与えた。それを信じて空しさに克つ戒めを守れ」と命じられている。(二〇一一年・春)