東西冷戦構造が終ってから世界各地で頻発する民族紛争の実状をテレビ映画や新聞の写真などで見るとき、いつも一種の違和感を感じる。それはそこに現地の一般的な生活水準とは遥かにへだたった近代兵器を見出すからだ。日本の歴史でいえば、戦国時代の合戦に現代の兵器が出てきた感じなのである。アフリカの大草原にできた地雷敷設地帯、自動小銃を肩にするハダシの少年、戦闘用車輌の運転に懸命な素朴な青年。彼らは仕組まれた「民族紛争・宗教戦争」の渦の中で互いに相手を憎み、戦い傷つき倒れてゆく。近代兵器の殺傷能力のテストデータを残して。
こうした「紛争」を最大限に利用している「死の商人」たち。近代兵器の製造販売で莫大な利益を得る彼らは、歴史的あるいは地域的対立の小さな火種を巧妙に増幅させ、絶対的対立のように住民をあおり立て、絶好のビジネスチャンスにしてしまう。いうまでもなく、この「死の商人」たちは、経済的先進国の人々であり、非常に短絡的にいえば歴史的キリスト教国の人々である。彼らの聖書には「隣人の血によってでも利益をあげよ」と書いてあるのか。ここには倫理喪失の宗教の恐ろしさがひそむ。私たちの信仰がいま根本的倫理性をなくしたとき、同じ過ちを犯すのだ。